皆さんがご存知のように、仏教には、
歴史を研究していると、面白い事に気づきます。
成立時期と重なるのです。
教義の面から言いますと、
小乗仏教では出家者に対して250の戒律があります。
これはユダヤ教と似ています。
そして、それを乗り越えていったのだが、大乗仏教とキリスト教だということになります。
釈迦は29歳で出家し、修行をします。
最初は苦行をしますが、
それでは、なかなか悟りが開けないので、
中道を歩む訳です。
そして35歳で悟りを開きます。
悟りを開いた後の21日間は、
木の下で座禅をしていた訳ですが、
これは自ら悟った真理、つまり、法と一体となり、
味わって楽しむということです。
この時、釈迦には伝道の意思が全くなかったのですが、
天から梵天が降りてきて、「あなたの悟った真理を人々に説いて下さい」と言います。
でも釈迦は、「私がいくら説いても、快楽に溺れた現代の人間に私の悟った真理を理解できるはずがない。誤解されるだけである。」
といって断ります。
梵天も3回目の説得でこう言います。
「確かに今の世では、あなたの教えは理解されないでしょう。でも全く理解されない訳ではありません。あなたを理解できる人々が必ずいます。その人達の為に教えを説いて下さい」
釈迦は納得し、かつて苦行を共にした5人の仲間に教えを説きます。これが仏教の始まりであり、
小乗仏教のはじまりでもあります。
釈迦は、はじめから全ての人を救おうと考えていました。
しかし、悟りを高い山に例えると、
いきなり全ての人が頂上に登れる訳ではありません。
そこで釈迦は、まず、エリートを養成して、
人々の為に山道を作らせたり、登り方を教えたりさせようとしました。
ところが、エリートは釈迦の教えは自分達だけのものだ!
といわんばかりに教えを独占しはじめます。
当然、民衆は、そっちのけとなります。
釈迦が亡くなって500年ほどたったころ、、、
こうしたエリートのためだけの教えに対する反発として、大乗仏教が現れます。
大乗仏教の教えの根幹は、釈迦の自受法楽でした。
これは、無言語状態の事です。
これこそ真実の言葉です。
小乗仏教は、教えを言葉にしていましたね。
これに対して、大乗仏教は釈迦の悟った無言状態にもう一度、戻ろう。
そこにこそ、仏教の根幹があるのだと、、、
つまり、それは釈迦が悟りを開くにいたった要因というか、悟りをもたらした中道の歩みです。
中道を歩むことで、釈迦と同じ真理を追体験できるというのが大乗仏教のスローガンです。
仏教との関連でいいますと、ユダヤ教にとって一番縁がないのは、伝道なのです。
自分から積極的に信者を獲得していくということは、ほとんどありませんでした。
民族宗教の要素が強くて、伝道とはあまり縁がありません。
ユダヤ人になることで、救いに与るわけです、、、
その意味では、小乗仏教の出家と似ています。
世俗の欲望を捨てる事で、仏の道を歩む事が出来る、、、
これは、世俗の人には簡単に出来る事ではありません。
その点、ユダヤ教徒になることによって、捨てるものがあるでしょうか?
あります。
割礼を受け、律法を守る生活をしなければなりません。
食物にしてもそうですし、料理する器具もそれに合った物が必要です。
それまでの自由な生活はやめて、戒律の世界に入った訳です。
又、別にユダヤ教を人に伝える訳でもなく、自分自身の心の問題として考えています。
その意味で小乗仏教と似ています。タイや、ミャンマーの小乗仏教の御坊さんも、人に出家を勧めません。
小乗仏教は、出家以外に多くの人が救われる道を見つけられなかったではないか、というのが大乗仏教から小乗仏教への批判でした。
全人類の救済のはずなのに、自分達だけが救われるなんて間違っている!
ユダヤ教は民族宗教で、自分達の事だけしか考えていないと、、、
それがキリスト教なのです。
大乗仏教の思想でいうと、出家した者はあくまでもリーダーなのだから、他の人にも道を見つけてあげる必要がある、、、と。
私自身が考えるのには、やはり、宗教間の壁を取り払うものは、、、
義の精神だと思います。
世界の全ての人々が、宗教の壁すら越えて平和で温かい生涯を全うするのには、やはり利他行、、、
義の心です。
義人になる事です。
義の心とは、良心の心です。
全て自分の徳に巡り巡ってくるのです。
総裁 フーマン 拝