改めまして。両部神道の霊能者であり大物主大神様のお代である宗教家のフーマンです。
私は幼少期の頃から、よく幽霊を見ては泣いていた子供でした。
今でもはっきり覚えているのは、自分の部屋には、木製のイスが置いてありました。
まだ幼稚園児の頃です。
夜中、目が覚めると、その椅子に貞子のように長い髪が後ろから前にバッサリしていて顔が見えない女性らしき存在がいました。
最初の頃は、自分の母親が座っているんだなと自分に言い聞かせていました。
しかし、五日目の頃、さすがに怖くなり、その幽霊が座っているが、全力で母親の元に泣きながら起こしにいきました。
父親には、夢じゃと言われ殴られていましたが、
もう怖くて、怖くて、毎晩、夜中の2時頃、泣きながら母親の元へ。
一緒に見にいくと、いないのです。
しかし、毎日、毎日、園児の私が、あの椅子をどこかにやってと、必死に訴えていたので、母親も、これは何かあるぞと思ってもらい、その椅子をベランダの外に置いてくれました。
すると、その日の夜中、目が覚めたら、女性の幽霊はいなくなりました。
拝み屋だったお婆ちゃんは、母親に、それは椅子に念が付いてたと言っていました。
しかし、小学生になった頃から幽霊なんて見る事もなくなり、ガキ大将となり、喧嘩ばかりしていた小学生でした。小学生三年生から野球が好きになり、地域の野球部に入りました。
私の親も知らなかったのですが、その野球部は、私の地域の札付きの悪が、野球をやってるチームでした。その札付きの悪共が、ビビって従う、、
その野球部の監督は鬼軍曹として有名でした。
殴る蹴るは当たり前。
バットでお尻を叩く、ケッパンと呼ばれていました。
下手な選手は、いつも血まみれでした。
母親は辞めさせようとしたみたいですが、父親が、一旦、入ったらケツを割るな❗️と叱咤され、私は根性を決め、その野球部を小学6年生までやりました。
キャプテンで4番になり、市の記録を出したりして、まさにスターでした。
私は、幸いにも、あまり殴られなく、ケッパンも軽い程度でした。
足も早く肩も強いし、なによりバッティングが凄いので、中学生になっても、有名な野球部に入り、活躍し、高校生になっても甲子園常連校に入り、かなり活躍しましたが、残念ながら、甲子園にはいけませんでした。
18歳の頃、DVの父親が嫌で、早く金を貯めて出ていこうと決意し、ただ、私の気性が人に命令されるのが大嫌いだったので、19歳からサラリーマンの道は辞めて、個人事業主となり、営業コンサルタントとして業務委託で、新規開拓を専門に、それを運良く?3社もかけもちして、頑張っていました。
まさにドブ板営業です。
19歳の年は地獄を見ました。
商売繁盛の為、神棚を部屋に作り、天照大神、住吉明神、三輪明神の3社を祀っていました。
総裁 フーマン 拝